瞼に差し込む光に目を開いた、彼の姿は既に無い。おそらくはとうに出かけたのだろう、彼の寝ていたはずの辺りは冷たくなっている。一体何を仕事にしているのかは判らないが、忙しいのとお金に困っていないのは確かだ。普通ならヒモと愛人の関係なのだろうが、彼から金銭を要求された事は一度も無い。むしろ、食費やら光熱費やらは彼が出してくれるのでうんと楽になった。少なく見積もっても金銭的な危険性は無い。それが、安心して鍵を渡せる理由の一つだった。溜息を吐いて、寝返りをうつ。ベッドの上げる軋みがこのところ大きくなった気がする。無理をさせすぎているのだろうか、そう考えて、少しだけ顔を赤らめた。ほんの一月前までは考えもしなかった生活、誰かと一緒に過ごすことが、こんなに優しい気持ちをもたらしてくれるとは思いもしなかった。目を瞑って、大きく息を吸う。部屋の空気はとても清浄だ、まるで森の中で深呼吸をした時の様。柔らかな香りと、熱くも冷たくもない温度。それから、少しの水の匂い。外は雨なのだろうか? 首を捻って窓の外を眺める、薄いレースのカーテンが、ゆらりと風に揺れている。明るいが、細かな雨が降っている様子だ。きっと雲は薄いのだろう。通り雨の様なものなのかもしれない。明るさに目が慣れてきた、アパートメントの窓の向こう、幾つものビルと鉄塔の彼方に青空が見える。ああ、天気雨なのかとナタリーは呟いた。厚手のカーテンは、切嗣が開けて行ったのだろうか。頬に手を当てる、其処から、彼の温もりが思い出せる気がした。

「悪いこと、したな」

 久しぶりだったせいか、テンションが合わなかったのか。夕べのセックスは、良くなかった。体調が悪かったのかも知れない、何時もの様に彼の愛撫を受けている間に体温が上がりすぎた。まるで意味がわからなくなる感覚、気持ち悪くて頭が痛む。突然の発熱に、切嗣も驚いたようだった。切り裂かれるように何かが私の中を通る、電流に似た何かが、脳髄から末端神経までを焼く。幾筋も幾筋も。おかしくなりそうだった。上と下がさかさまになって、何処までも視界がゆがんで近くて遠い。距離感と色彩がばらばらになる幻覚。恐怖に駆られて、逃げ込むように眠りに落ちた。だが、どうやら朝になって熱は引いたらしい。動かしてみるが、体も不調を訴えはしない。どちらかといえば、調子がいいぐらいだ。ベッドから身を起こす、流れ落ちてくる髪が鬱陶しい。左手でかき上げた。その拍子に、耳に異物感を感じる。金属の質感だ、どうやらイヤリングらしい。外して目の前に持ってきた。大粒のダイヤと、小粒だが素晴らしい色のルビーがゴールドの上に上品にあしらわれたイヤリング。思わず溜息が漏れた、ベッドの枕もとで電子音、目覚ましを切る時、其処におかれた置手紙に気が付いた。取り上げて、目を通す。

「―――ふふ」

 手紙には、無理をさせて悪かった、と、書いてある。おかしな話だ、私が体調の管理をしていなかったのに、これではまるで、彼が悪者の様。それにしても―――セックスの失敗には高すぎる贈り物だ。今晩は、食事と笑顔で相当なサービスをしなければならないだろう。ナタリーはもう一度微笑むと、シーツを纏ったままクローゼットに歩み寄った。さて、今日は何を着ようかしら。口を付いて出る声は、何処か弾んでいる。幾つになっても、贈り物というのは嬉しいものだ。このイヤリングに合うように、今日は少し洒落込んで仕事に出かけよう。赤いレースの下着に脚を通す。セットのブラに腕を通しストッキングをはく。シルクのシャツも、思えば彼からの贈り物だった。イヤリングをしっかりと引き立たせるには、スカートよりパンツの方が良いだろうか。メイクはシンプルにした方が良いだろう。ルージュとアイラインを強調して、ルビーの色に合わせよう―――

 プレゼント一つで女を幸せにする。本当に彼は―――私の魔法使いだ。

































                      「A good & bad days 7.」
                        Plecented by dora

































 /7

 ナタリー・オールドマンが勤めているのは、この街で両手の指に入る程度の貿易会社だ。港から距離的に近いせいもあって、街にはその手の企業が多い。それぞれがそれぞれの経営者と理論、プライドと策略で動いている。道を歩いている人間の二割は同業者と見ても良いだろう。皆、駅に向かうせいもあって同じ方向に歩いている。流れに逆らうとしたら、キリツグの様な人種なのだろうと思った。職場は地下鉄で二つ先の駅にある。駅員に定期券を見せ、改札を抜ける。「Good luck Ms'」と、投げかけられる声に笑顔で返した。

「Good morning! ミス、今日はやけにご機嫌みたいじゃないか」

「Good morning ジョン、判る?」

 ホームに降りたところで、陽気な声が聞こえてきた。同僚のジョン・ハワードだ。甘いマスクに、すっきりとした長身のハンサムガイ。いかにもって感じの好男子だ。

「もちろんさ! 察するにそのイヤリングのせいかな?」

「正解! さすがね」

「君を口説いて口説き落とせなかった僕だからね、君の好みは良く知っているさ。それだけにショックだ。我等がアイドルのオールドマン嬢に―――彼氏が出来たなんてね!」

「ふふん、残念でした」

 ジョンと話している間に、電車はホームに滑り込んだ。流れ出す人に押されるように歩き出す、そういえば、ジャパンの通勤ラッシュは激しいらしい。今度切嗣に聞いてみよう。と、ナタリーはやくたいも無い事を考えていた。軽口を叩きながら足を速める。速歩におしゃべりで息が弾む。少し汗ばんだので上着を脱いだ、首筋を走り抜けていく風が心地よい。腕時計に目を落とす、始業まで、後五分程度だろうか―――実際のところ、遅刻しそうなのだ。なかなかしっくり来る組み合わせがなくて、鏡の前でついファッションショーなど開いてしまった。はっ、と、気が付いて時計を見たときには時刻は既に八時半。遅刻寸前となっていたのだ。

「Hey ナタリー、いい加減ダッシュしないと厳しいんじゃないかな?」

「かもね、でも今日私はエレガントに行くわ」

 喩えそれで遅刻してもね、と、彼に笑いかける。大げさな身振りで“Oh!! なんてこった!”と、嘆くと、彼はスマイル一つを残して走り出した。アカデミーの頃、陸上の選手だっただけあって、見る間に影が遠ざかっていく。それを見送ると、ナタリーはほんの少しだけ脚を急がせた。もう十分急いでいた脚が、不服だと喚き立てた。

 ナタリーがデスクに座ったのは、始業の実に十五秒前だった。流石にボスに睨まれて首をすくめる。間に合ったことに、驚いたのは事実だったが。始業と同時に受話器を持ち上げ、得意先へと打ち合わせの電話をかける。さあ、今日も一日頑張りますか―――









 ひっきりなしにメモと受話器との間を往復する時間が終る。オフィスの窓の向こうに、夕日が赤々と輝いている。この街はそれなりに空気が汚れているので、こんなに綺麗に見えることは、まずありえない。あちらこちらから、ファンタスティック! と、夕日を讃える声が聞こえた。何から何まで贅沢な気分にさせてくれる日だ。荷物をまとめ、オフィスを後にする。今日はもう終業だ、これから帰って買い物に行かなければならない。イヤリングのお礼に、とびっきりに手が込んだ料理を出してやるのだ。彼の喜んでいる顔を想像するだけで、足取りが軽くなるのを感じる。電車を降りてまっすぐ右のショッピングセンターへ、食材の買出しは、いつも近場のスーパーマーケットで済ませているが、今日は特別だ。あれこれと籠に積み込んでいたら、結構な量になってしまった。車で来なかった事を悔やみながら、レジへと向かう。流石にこれだけ載せるとカートも重い。ハンドルを取られそうになりながら、ナタリーはレジの列に並びこんだ。自分の番になったので、尋ねてみる。

「このカート、貸し出しは無いのかしら?」

「ごめんなさい、店内だけなの」

 悪気なんて一欠けらも無い声で、若い店員は言った。

「―――オウマイダーリン、ちょっと買いすぎたわ」

 唇の端だけ持ち上げて、笑う。自嘲の成分が多量に含まれたそれを見るものはいない。何だってまたこんなしゃれた格好をしている時に、えっちらおっちら大荷物を抱えて歩かなければならないのだろうか? 目の前の荷物に溜息を浴びせ、タクシーを呼ぼうとしたその時―――オートバイのクラクションと共に、彼の声が聞こえた。弾かれたようにそちらを見る。其処に立っていたのは見まごう事なき切嗣の姿―――

「おかえり、僕も手伝おう」

「え、あ、ありがとう」

 サイドカーに荷物を載せると、切嗣はバイクを押して歩き始めた。細身の見かけによらず、彼はタフだ。それなりの重量があるだろうそれを、少し踏ん張っただけで押し歩いている。何時もとは違う、レザーの衣装を身にまとった彼は新鮮だった。

「そろそろ返ってくるだろうと思って、待っていたんだ」

「バイクに乗って?」

「ああ、本当は二人で乗っていこうと思ったんだけど―――」

 視線を落とす、其処には、我が物顔で居座る食材の姿があった。苦笑すると、切嗣は首を横に振りながら言った。

「―――サイドカー付きにして良かった、でなかったら今頃は立ち往生していたかもしれないね」

「ふふ、かもね」

 歯を見せて笑う彼に微笑み返す。何時もは不敵に笑うことの多い切嗣だが、こうして笑うと歳相応に若さがあふれる。その瞬間がたまらなく好きだった。誰も知らない私だけの笑顔。そんな気がするのだ。

「イヤリング、ありがとう」

「ああ、良く似合っているよ」
 
 コーディネイトもばっちりだと切嗣は言う。日本人は皆こうして素直でシンプルな賞賛の仕方をするのだろうか? まわりくどなく、率直な賞賛は耳に心地よい。否、きっと彼の言葉だから、シンプルな賞賛も嬉しいのだろう。朝よりも、足取りが軽くなった気がする。

 アパートメントの前に到着した。管理人から台車を借りて、荷物をエレベーターに運び込む。其処まで済ますと、切嗣はいったんバイクのところまで戻った。

「手近な場所にとめてくる」

「玄関前でまってるから、其処からもお願いできる?」

「任せて、じゃあ後で」

 低いエンジン音を響かせて、切嗣の乗ったバイクが夕闇に向かってゆく。後で聞いた話だが、あれはBMWのオートバイなのだそうな。興味が無い世界だったが、これを機会に楽しめるようになってみるのも悪くないかもしれない。









 夕食は、終始華やかな雰囲気で進んだ。何時もよりもちょっと良いワイン。ちょっと良い食材。それと、何時もより―――ちょっと悪そうな彼。何だか刺激的な感じがする。

「ねえ、今日は何処へ行って来たの?」

「仕事の仕込をしてきたんだ」

 どんな仕事なのかは、もう突っ込んで聞かなくなった。聞いてもはぐらかされてしまうし、それではこっちも面白くない。それに、聞かれたくない事を聞きだそうとするのはルール違反だ。折角仲良くなった野良猫が、どこかに旅立ってしまうのは避けたい。彼が話してくれることだけを聞いて、あれこれ考える程度にとどめることにした。

「体調は?」

「好調よ?」

 それは良かった。と、大げさに彼が安堵した。ちょっとした事だが、心配してくれるのは嬉しいことだ。女の都合を考えない男が増えている中で、良い傾向だと思う。小一時間ほど、ワインを傾けながら、今日の話をした。それから、体の具合を診て貰うためにベッドへ。

 ……スケベって言うのは禁止。女だって、そんな気分の時ぐらいあるのだ。













 〜Interlude in〜

「外道」

 背中に浴びせられた声に、男は振り向いた。その目には、何の感情も映っていない。ただ、目標の達成に向けられた、並々ならぬ集中力だけがうかがい知れた。

「外道」

 もう一度。

 嫌悪と、さげすみと―――隠し切れない恐怖が声に混じっている。気にするそぶりもなく、男はたんたんと作業を続けた。

「げど―――」

「無駄口を叩く暇があるのなら手を動かせ」

 三度目は聞く気が無いのか、開かれた口から出た声に、人間らしい温もりは無い。ぞっとした、こいつは、まるで鋼だ。

 仕込みは終った。口元が寂しくなって、煙草を銜える。男は紫煙を長くたなびかせると、此処しばらくの温もりを思い出した。

 茶番だ。

 全て茶番だ。

 それも、そろそろ御仕舞いにしよう―――

 〜Interlude out.

To be continued.〜









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